「全員退却!」
の声が城の薄暗い石畳の回廊に響き渡った。
「早く逃げなさい!」
「陛下も早く脱出を!」
「私のことはよいから早く皆を連れて逃げなさい!」
「陛下!」
は中庭で必死に敵を食い止めて仲間の脱出に
手を貸しているピーター王よろしく、懸命に一人でも多くの森の住人を
脱出させようと杓杖とスピレットを奮っていた。
一方、その頃エドマンドは西の塔の一角でテルマールの射手二人に
追いかけられていた。
すでに彼が閂代わりに差し込んだ懐中電灯の木戸はバリバリと破られていた。
今、テルマールの射手二名は柄からするりと長剣を抜いて、エドマンドをじりじりと追い詰めていた。
だが、次の瞬間、エドマンドは背中を側壁に預けると、そこからまっさかさまに飛び降り、度肝を抜かれた
兵士達は慌てて駆け寄った。
だが、彼は下に待たせていたグリフィンに巧みに合図を送り、落ちたと見せかけて
さっそうとそれに乗って登場すると兵士達を蹴散らして飛翔した。
中庭に面する厩の扉が開いた。
そこには黒馬に跨り、もう一頭の駿馬を連れてきたカスピアンの姿があった。
「妖精女王はまだ中だ。君と同じように森の主として仲間の脱出に手を貸している」
カスピアンは今しがたまで長剣を振るっていたピーターの顔をじっと見つめると
厳しい顔で告げた。
「彼女は、私が脱出を進めても仲間がまだいるのに見捨てておけぬと奥へ・・」
カスピアンは牢から助け出したコルネリウス博士と馬を並べ、酷く動揺するピーター
に言った。
ピーターは信じられない面持ちで「何だって?」と一言短く呟くと、
カスピアンの顔を伺ったが、既に王子は三階のバルコニーで部下に耳打ちするミラース
の怪しげな動きを読み取っていた。
「命令を下せ」
「お言葉ですが、まだ中庭には大勢の戦っている兵士が・・」
グローゼル将軍は片手を挙げようとしたが、冷酷非情なミラースの命に戸惑い、なかなか命令を下せないでいた。
「退却!」
「ピーター王、あなたもだ!」
「急がねば、ミラースはここにいる者全てを皆殺しにする気だ」
「!」
カスピアンは馬の尻を叩いて駆け出させると、酷く取り乱しながらそれでも森の住人達を
救おうとするピーターを促した。
「私がやる、このようにな!」
ぐずぐずして動かないグローゼル将軍の手から、黒いボーガンをひったくると
ミラースは「見よ!」とこれみよがしに引き金を引いて、落ち行く忍び返しのついた
城門を全体重をかけて支えているミノタウロス目掛けて矢を放った。
右足に矢が刺さったミノタウロスはそれでも命をかけて、落ち行く門を支え続け、
カスピアン、ピーター、コルネリウスの馬が通過するまで雨あられと降り注ぐ
テルマール人の矢をものともせずに踏ん張っていたのだった。
ピーター王が跳ね橋のところで馬を止めさせて振り返ると、先ほどまで
城門を支え続けていたミノタウロスがふうっと息を引き取り、その後ろを逃げ遅れた
大勢の森の民がひしめているのが目に映った。
「お前達は逃げろ!」
だが、そんな過酷な状況下においても、城内に取り残された森の民は恨み言や愚痴一つもらさず、リーピチープ、涙を見せて振り返ったピーター王や他の
仲間達に呼びかけていた。
城の跳ね橋が徐々に上げられていく中、ピーター王は涙を飲んで手綱をしっかりと
握ると跳ね橋を飛び越えて城をあとにした。
その頃、君主の中でただ一人、城内に残って懸命に森の住人を脱出させていた
女王は見張りの塔に一人取り残されていたところを
グリフォンで生存者を探していたエドマンド王に発見され、無事救出されていた。
今、グリフォンで城内を滑空するエドマンド王と女王は
中庭に積み重なる敵味方の無数の死体を見つけて言葉を失った。
「兄さん、は僕と一緒だ!」
それからエドマンドは長い石畳の橋を駆けるピーターの馬を見つけると
呼びかけた。
ピーターはほっとする暇もなく、複雑な心境で弟に頷いて見せると
馬の歩みを速めさせた。
東の空が明ける頃、ルーシー・ぺペンシーは真っ二つに割れた石舞台にもたれかかってまどろんでいたが、
馬の蹄の音を聞きつけて、片時も離さぬ薬瓶を手にして駆け出していった。
森の奥深くにそびえる遺跡をくぐった住人達は皆、士気をくじかれ、疲れきっていた。
兄姉や夫、恋人の帰りを辛抱強く待っていたルーシー、セントールの女達は、あまりの帰還の人数の少なさに
驚きと悲しみを隠せなかった。
「いったい何があったの?」
幼いルーシーはともすれば震えがちな声で長兄に尋ねた。
「こいつに聞けよ」
ピーターはやるせない怒りで、隣を歩いていたカスピアン王子を睨みつけると言った。
「ピーター、やめて」
兄の数歩後ろを歩いていたスーザンがたしなめたが、彼はそれを轟然と無視した。
「私の責任だと言いたいのか?」
その聞き捨てならない言葉を耳に挟んだカスピアンは、いささかむっとして突っかかった。
「だいたい退却が遅すぎたな」
「それを言うなら君が余計なことをしたからだろ?」
「そうすれば仲間はあんなに死ななかった」
「ならいっそ、ここにいればよかったんだ!」
「助けを呼んだのはそもそも君だろ?」
「そうだったな。だが、それが私の最初の過ちだ」
「いいや、テルマール人の君がナルニア人を助けようとしたしたことに無理があるんだ」
「おい!私は女王やナルニアの民を見捨てる気はないぞ!」
「テルマール人は野蛮な侵略者だ!お前に女王との共同統治を画策する資格はないぞ!」
「やめてくれ!」
カスピアンはもう聞きたくないとばかりに彼に掴まれた腕を払い、すたすたと歩き出した。
「おい、よく聞けよ!お前の父君もミラースもこのナルニアの王座には不要だ!」
だが、ピーターは残酷にも傷心の彼に火に油を注ぐような一言をつけくわえた。
「神聖な玉座は女王ただ一人のものだ!」
その一言で張り詰めていた何かが切れたカスピアンは凄まじい唸り声を上げて、
ベルトから長剣を抜くとピーターに切りかかった。
ピーターは鼻腔を膨らませ、受けて立つとばかりにカスピアンが振り向くとほぼ同時に
自らも長剣を抜いていた。
「もう沢山です!内輪もめはやめなさい!」
この争いを胸がつぶれる思いで見ていた影があった。
それは他ならぬその人であった。
「この期におよんでなぜこのようなことを・・お二方、今がどのような状況なのか分かっておいでなのですか!?」
女王は深い悲しみに暮れながらも、若き王子と王を叱りつけた。
「陛下!」
「、しっかり!」
突如、重傷者のトランプキンを手当てしていたルーシーの目の前で
彼女の体がぐらりと傾き、転倒した。
幸い、エドマンドの腕が伸ばされてしっかりと女王を抱きとめていたが。
「遺跡の中へお連れして下さい」
セントールの副官はこれまでの度重なる心労と過労で倒れた彼女を運ぶよう
エドマンド王に申し付けた。
ニカブリクは苦々しげに夜襲失敗の原因を作ったピーター王を
睨みつけると、絶望の中にいるカスピアンを一人追って遺跡の中へ入っていってしまった。
遺跡内に運ばれた七世は粗末なわら布団の上に寝かされていた。
奇しくも七世が倒れたその日、テルマールの古城では黒テンの毛皮で縁取りされたロイヤルブルーのマントを纏い、
サファイアを散りばめた王冠を授けられたミラース卿が「ナルニアの王」として即位した。
これで事実上、ナルニアには生粋のナルニア人である女王、侵略者のテルマール人であるミラース王の二人の国王が成立する
異常事態と化したのであった。