「親愛なるフロド・・」
「私が若かりし頃の冒険についてまだお前に話していなかったことがあったな・・」
「私ももう年だ。この話を聞かざるして冒険に始まりはなかった」
「今こそ真実を話すべきやもしれん」
「私の冒険の中で最も印象に残ったうら若きご婦人のことをな」
「その者を皆はこう呼んだ――魔法使いの弟子とな」
ここは広大な緑のムアやヒースのハリエニシダに覆われた丘が並ぶホビット庄。
のどかな村落には乳牛やポニーが草を食み、根っからの農耕民族であるホビットの
作人達が鋤でせっせと畑を耕したり、刈り取ったばかりの干草をかき集めては
荷車に積み上げていた。
「お師匠、ねえ、お師匠様ったら!」
広大な緑のムアを駆け下りてくる燃えるような黒髪の女楽士。
その腕にはムアの丘ででたっぷりと摘んだパンジー、ナデシコ、真っ白な
ツルバラなどの花々が抱えられていた。
その先には業を煮やして丘をせっせと下っていく灰色の鬚を生やした老人の姿があった。
「お前さんみたいなのんきな弟子なんぞ知るか!全く、花摘みやそこいらのホビットの連
中にご自慢の歌声を聴かせよって、はや何時間
経っておるじゃ?」
「そんなことは知りませんよ!でも、あまりにも花々が綺麗だし、
ホビットの紳士方や奥様方が熱を入れて聴いてくれる
のでつい、一生懸命になってしまって・・」
「今日は大事な案件を抱えている上、あれほど寄り道するなというておったに、もう!」
「お師匠、大丈夫ですよ。まだバギンズさんは逃げやしませんよ」
「果てさてどうじゃろうかな。我々が今日、相手をするのは平和をこよなく愛する者
じゃぞ」
灰色のマントに擦り切れた僧服、それと同系色のとんがり帽子を被り、
手にはお決まりの杖を携えた老魔法使いは頭を抱えて呟いた。
彼の横には孫と言ってもいいほど歳の離れた娘――長く艶やかな黒髪を垂らし、
藍色の縦縞の上着と空色のスカートをまとった見習い者がいた。
魔法使いの弟子――(それがこの娘の名だった)は
中つ国の青の魔法使い、アラタルトとゴンドールの宮廷女官、エレイン・
との間に生まれた娘で両親亡き後、アラタルトと最も親しかった魔法使い、
ガンダルフに引き取られ、養育されたのだった。
ある時、イスタリと人間の娘であったに魔法使いとしての高い素質を見出した
ガンダルフは彼女に自らで魔法を制御するよう、根気よく訓練させ、武芸や学問なども
同時に学ばせたのであった。
「おはようございます。ああ、実に天気のいい日ですね」
「さよう、何か新しいことを始めるにはうってつけの日じゃ・・」
延々と連なる緑の絨毯を上っていくと、矢車菊やユキヤナギや
ピンクの一重咲きのバラに彩られたあずまやの一角があり、この庭園の主人である
ビルボ・バギンズがやや不審そうな顔をして迎えてくれた。
「ガンダルフ、今日はいやにご機嫌ですね。そちらの
お連れのご婦人がいらっしゃるせいですか?」
ここで蜂蜜色の髪の毛の彼は背丈の高いに目を向け、
客を迎える良家の主人らしく
今までふかしていたパイプ草をしまった。
「バギンズさんですね?ガンダルフからお話は聞いています。
・と申します。以後、お見知りおきを」
彼女は、いまだ独身者で変人という噂のあるビルボを、恭しく片膝を折り、
とろけるような笑みを浮かべて自己紹介した。
「いや、なに・・ははっ、ガンダルフ、実に美しいお嬢さんですね。
や、もしかして、あなたの
実の娘さんだとかいいやしませんよね?」
ホビット庄には決していないタイプの女の来訪に
ビルボ・バギンズは夢心地で彼女の差し出した華奢な手を握っていたが、
はっと我に帰って、彼女の側に佇む老魔法使いに尋ねた。
「無論、わしに隠し子なんぞおらん。この娘はさる親しい魔法使いの男の娘でのう。
ゴンドールの宮廷に仕えておった母親が亡くなってからはわしが引き取ったのじゃ」
「ゴンドール?ああ、書物で読んだことがありますよ。大きな人達が暮らす
白亜の宮殿がそびえる都だとか!」
こうして一介のホビットだったビルボ・バギンズはガンダルフとその弟子の巧みな
策略によって想像だにしない冒険の旅へと狩り出されていくのであった。