「早く、早く!」
石造りの城の冷たい階段を飛ぶように駆け下りる妖精女王。
「待ってくれ、何か武器を持っていかねば!」
その後ろを寝巻き姿のカスピアン王子が追いかける。
王子は通りかかった城の武器庫に飛び込むと、軽い鎖帷子一つ、よく磨かれた長剣一つを
引っつかんで駆け出した。
「奴らは森の貴婦人が支配している地には踏み込んで来ますまい」
コルネリウス博士は王子にマントを着せ掛けてやると、最後に
ナルニアの失われし角笛を差し出した。
「では頼みましたぞ」
「王子、お気をつけて」
コルネリウス博士は「また会えますとも」と王子に約束し、七世に
彼の身の上を託した。
王子が七世と共に薄暗いもやの中を馬で駆けていき、中庭の
噴水前に差しかかった時だった。
「侵入者だ!」
「止まれ!」
「捕まえろ!」
二人の番兵が長槍をクロスさせて逃亡者達の行く手を防いだ。
「あぁ〜っ!!」
だが、二人の番兵は流鏑馬のごとく、が馬上から放った火矢にあっけなく射抜かれ、
カスピアンは倒れた番兵から長槍を奪うと最後に待ち受ける門番を倒して
城門を突破した。
「ミラース卿の奥方が男児をお産みに!」
長い石畳の橋を駆ける二頭の馬の後ろでは、嫡男を出産したミラース卿夫人を祝して
何百発もの花火が打ち上げられているところだった。
「追っ手が!」
は何頭もの馬蹄の音を聞きつけてさっと顔を強張らせた。
「行こう!」
カスピアンは手綱を引き絞ると、踵でわき腹を蹴って馬を駆け出させた。
薄い明け方のもやの中を逃亡者達はどこまでも続くムアを馬で駆けた。
その背後には鉄兜で身を固めた屈強な武人達が迫っていた。
王子が森の貴婦人が支配する針葉樹の森に入ってしまうと、武人達は急に怯えたように馬を止めさせた。
「森を恐れる馬鹿者は牢屋に放り込むぞ!」
一人、恐れを知らない上官は不安そうに囁きあう部下達を叱りつけた。
「王子、止まってはいけません!このまま突っ切って!」
「ここは私が何とかします!」
は森に馬を踏み入れた追跡者達との距離がどれくらいだろうかと
目算しながらカスピアンに伝えた。
黒々としたムアを通り越し、大河へと差しかかった時、どこからともなく
幾頭かの狼が現れて追跡者達の行く手を防いだ。
かつてはジェイディス女王の追従だった者達は、今やの配下に下っており、川を縦断するカスピアンなど目もくれずに
ううっと低く唸り、牙をむき出すと対岸の岸から追跡者達の馬を狙って襲いかかった。
狼に飛びかかられて転倒する馬、悲鳴、怒号、軍人達が抜刀する音がこだまし、カスピアンとは
その隙に逃げた。
「奴らはもう追ってはこないのか?」
カスピアンは巧みな手綱さばきで馬を操りながら話しかけた。
「カスピアン!」
彼がくるりと後ろを振り返った時だった。
の注意もむなしく、王子は目の前に突き出ていた木の枝に頭をぶつけて
落馬した。
「カスピアン!」
はもう一度呼びかけると、慌てて馬から飛び降り、痛そうに呻く
素晴らしい黒髪の持ち主の下へ駆け寄った。
「誰だ!こんな時間に?」
「何故妖精女王がテルマール人と一緒に?」
「これは様。その男はいったい・・」
が心配そうに彼を助け起こそうとした時、曲がりくねった木の根っこから二人の小人がはい出てきた。
トランプキンは短剣を手にカスピアンに近寄ったが、堆積した落ち葉の近くに落ちていた角笛を発見して
事情を察した。
「追っ手よ!」
馬のいななきにはびくっと飛び上がった。
「何のことです、陛下?」
二カブリクは酷くわけがわからないように呟いた。
「彼を頼む!様、隠れていなせえ!!」
急を要する事態を悟ったトランプキンは短剣を振り回し、狼の襲撃から逃れた追っ手に
勇ましく切りかかっていった。
小柄な彼の身を案じたカスピアンは角笛を吹き鳴らした。
「やめろ、この馬鹿が!」
二カブリクはそんな突拍子もないことをしでかした王子を殴りつけた。
「どこへいきなさる?女王陛下。あんたも奴らに狙われてんだ!隠れていなせえといったろうに!」
あんな小柄な彼をテルマール人達にめった切りにさせてたまるものかと、はくるりと身を翻して駆け出そうとした。
だが、俊敏な二カブリクが彼女の背中目掛けてえいやっと何かを振り下ろしたので
彼女もカスピアン同様仲良く気を失って倒れてしまった。
「えらくしなびたパンだ」
「これを様のお口に入れるのは気が引ける」
「やはりスープだけにしよう」
「無茶ばかりする陛下はともかく、あいつはもっと強く殴ればよかった!」
「ニカブリク、彼はまだ若い」
暖かい吊ランプの食卓では温厚なアナグマが怒り狂う小人をなだめていた。
「彼はれっきとしたテルマール人だぞ。陛下も陛下だ。俺達に何の相談もなくあいつを引きずり込むとは・・」
「きっと女王陛下には我々にはわからぬお考えがあって・・」
「そうか!俺はついていけないがね。あまりにも急進的すぎる」
「テルマール人と手を組むとは・・いったいあの女の目はどこについているのか・・」
「おかげでどうなった?トランプキンはあの女の無茶ぶりのせいで・・」
「トランプキンが捕まったのは彼女や客人のせいじゃない」
その言い争いで、奥の小部屋でふかふかの羽根布団に寝かされて、傷の手当てまでしてもらったカスピアンは
目覚めた。
彼は反対側の昔風のベッドで、こちらも手当てされて眠っているを揺り起こそうとしたが、
彼女は疲れているのかびくともしなかった。
「それ見ろ!こいつは早く殺すべきだった!」
騒ぎが持ち上がったのは、王子が食卓をこっそりと横切ってここから逃げようとした時だった。
ニカブリクは憎しみをこめた目つきで、短剣を抜き、火かき棒で応戦しようとした王子に切りかかった。
「彼は殺さない」
温厚なアナグマがいきりたつ彼を治めた。
「俺達の姿を見られた上、このまま逃亡を許す気か?」
「よせ、ニカブリク!」
「やめて!」
部屋飾りをくぐって現れたに二人の男達の手はとまった。
「二人とも、武器を置いて」
「私達は話し合う必要があるの」
カスピアンが火かき棒を暖炉の側に戻し、ニカブリクも面白くなさそうに短剣を椅子の上に置いた。
「彼女がナルニア人なのは知っていた。だが、こんなところに君達が隠れ住んでいるとまでは聞いていない・・」
カスピアンは目をぱちくりさせながら、もの言うアナグマと鉄灰色の髭を蓄えた不機嫌そうな小人を見やりがら呟いた。
「様、それに客人。まだ料理は冷めていません。どうぞ」
アナグマが湯気の立つ香りのいいスープを運んできて、二人分の食事をセッティングした。
「ここはテルマール人兵士のお宿じゃないんだぞ」
ニカブリクがちくりと皮肉をこめて言った。
「私は兵士ではない。カスピアン王子だ」
その言葉にアナグマや二カブリクの顔色が変わった。
「その王子とやらが何故妖精女王と一緒にいる?」
「彼女が私を逃がしてくれた」
ニカブリクの問いに、カスピアンの表情が曇った。
「私の叔父が王位剥奪の機会を狙っている」
「私が今まで殺されなかったのは叔父に息子がいなかったからだ」
「だが事情が変わった。叔父の妻が男の子を産んだ」
「なら俺達の手で殺す手間が省けたな」
「ニカブリク、なんということを!」
の叱責で、この苦虫を噛み潰したような小人は不満そうに押し黙った。
「いつまでもここにはいれない」
「、私を助けてくれたことは忘れない」
「だが叔父の追っ手が迫っている。このまま一緒にいるとどんな災いが降りかかるか・・」
カスピアンは鎖帷子を着込み、命の恩人である彼女に申し訳なさそうに言った。
「行くな!俺達を救ってくれないと!」
「女王陛下はその為にお前を連れ出した。この角笛にかけてもな」
アナグマはそっとテーブルの上に置いていた真っ白な角笛を差し出して言った。
「待って、待ってったら!」
「止まって!」
「ついてきてはいけない。これ以上一緒にいると危険だ」
「これじゃ何の為にあなたを逃がしたのか分からないじゃない!勝手に行かないで!」
はハリエニシダが生い茂る森を早足で進む王子に追いついて叫んだ。
「角笛を吹いたのなら、来るべき王や女王たちを待つべきでは?」
鬱蒼とした森の木立から顔を出した、密かに両者の後を追けてきたアナグマが問いかけた。
「ミノタウロスにどう説明すべきか?奴は気性が荒いぞ」
同じく後を追けてきたニカブリクが脅かすように言った。
「ミノタウロス?」
途端にカスピアンは歩みを止めて面白そうに振り返った。
「ああ、角もあるしあんたより相当でかいぞ」
「セントールは今もいるのか?」
「いるとも。彼らは味方になってくれるが、他の連中はどうだろうな・・」
カスピアンが伝説のナルニアの住人達に興味を示したので、アナグマは出来るだけ長くこの会話を
続かせようと話を引っ張っていった。